ソ連成立前夜の混乱期、ロシアの子供たち約800人が日米の連係プレーで太平洋と大西洋を船で横断、戦火を逃れて両親の元に帰還した-。祖父母からそんな 話を聞いて資料を集めてきたロシア人女性が、「カピタン(船長)へのお礼が言いたい」と、日本人船長や乗組員の遺族を探している。ただ、日本国内ではこの 旅が事実かどうか確認できる資料もほとんど見当たらないのが実情だ。手がかりは船長の名字と思われる「カヤハラ」と、船名「ヨウメイマル」だという。
■首都から疎開
消息を求めているのは、サンクトペテルブルクに住むモルキナ・オリガさん(57)ら。この旅で知り合って結婚したという祖父のユーリさんと祖母のオリガさんから話を聞き、米露の公文書館などで事実確認を進めてきた。
1918年、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)は飢餓と疫病が蔓延(まんえん)していた。前年の十月革命でソビエト政権が樹立され、英仏米日を巻き込んだ戦争(対ソ干渉戦争)と内戦が同時に起きていた。
モルキナさんの調査によると、ペトログラードの3~16歳の子を持つ親たちは18年の春、子供たちだけをウラル地方に列車で避難させた。モルキナさんの祖父母もその中にいた。
しかし、戦火はウラルにも迫り、首都に戻るのも危険この上ない。救いの手を差し伸べたのが、極東ウラジオストクにあった米国赤十字社だったという。
■赤十字が依頼
米国赤十字社はウラジオストクで子供たちを受け入れて約1年間、面倒を見た。亡くなった子もいたが、住居や食事だけでなく教育や職業訓練も施したという。が、組織は革命が起きたロシアからの撤退を余儀なくされる。
赤十字社は「子供たちをほうり出して帰国するわけにはいかない」と、子供たちを海路でペトログラードに帰すことを決め、この仕事を引き受けたのがカヤハラ船長率いるヨウメイマルだったという。
貨物船だったヨウメイマルは突貫工事で寝泊まりできるよう改装され、約800人の子供を乗せて20年7月にウラジオストクを出港、3カ月間の航海でフィンランドに到着したとされる。
21年1月には両親の所在が確認された子は全員、祖国に帰り、2年半に及んだ子供たちの長い旅は終わった。「離ればなれになった後は消息もたどれず、自分の子は死んだ、とあきらめていた親もいたそうです」とモルキナさんは語る。
■室蘭で交流も
ヨウメイマルはウラジオストクを出港した後、北海道の室蘭に寄港して地元小学校の児童らと交流したほか、米サンフランシスコやニューヨークなどにも立ち寄り、地元の人々と交流したという。
モルキナさんは、「日本はシベリアに出兵するなど、革命直後のロシアとの関係は悪化していました。長い船旅ではいさかいもあったようです。それでも、日本人乗組員と子供たちは、フィンランドでは涙を流して別れを惜しんだといいます」と話す。
旅から半世紀が過ぎた73年には、米国赤十字社の当時の関係者がソ連を訪れ、かつての子供たちと旧交を温めたというソ連誌の記事もある。
モルキナさんは2年前、サンクトペテルブルクを訪れた篆刻(てんこく)家の北室南苑さん=金沢市在住=と知り合い、船長や船がその後たどった運命を調べてもらうよう依頼した。
北室さんらは、ヨウメイマルは神戸の太洋海運(現・太洋日本汽船)の関連会社から調達した「陽明丸」で、神戸市長も務めた勝田銀次郎氏が尽力した可能性 があることを突き止めた。が、北室さんも太洋日本汽船も、カヤハラ船長や乗組員については「手がかりがつかめない」という。
モルキナさんは「日露の相互理解は多くの手段でなされるものです。厳しい時代を協力して乗り切った、こうした歴史的出来事もその一つになるのでは」と、日本側の当時の関係者の消息を求めている。
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