2009年12月14日月曜日

戦艦大和の慰霊塔を修復へ

 1945年4月7日に撃沈された戦艦大和をはじめとする旧日本海軍第2艦隊の戦没者を弔うため、鹿児島県・徳之島の犬田布(いぬたぶ)岬に立つ慰霊塔が風雨と塩害にさらされて崩壊の危機にあり、地元の伊仙町が修復することになった。 高さ24メートルの慰霊塔は建立から41年を経てコンクリート片が剥落(はくらく)しており、遺族らから修復を望む声が上がっていた。町は募金活動で全国から寄せられた約1600万円を使う。
 「戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔」は、国会議員らの呼びかけによる全国からの募金で68年5月に完成した。実際の沈没地点は徳之島よりも同県枕崎市の坊岬(ぼうのみさき)の方が近く、同市にも慰霊碑がある。ただ元乗組員の吉田満著「戦艦大和ノ最期」に徳之島沖で沈んだとの記述があり、沈没地点は戦後長らく徳之島沖とされてきた。
 慰霊塔は、文化勲章を受章した鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(83)の作品で、コンクリート製の巨大な塔は大和の艦橋から喫水線までを表している。
 その80メートル先の岩場には、炎に包まれ海に散った兵士の姿をイメージした「海炎の像」がある。塔と像は、大和の艦橋と艦首になぞらえており、大和の姿をほうふつとさせる作品になっている。 慰霊塔は塩害や風化が激しく、10年ほど前からコンクリート片が頭上からはがれ落ちてきたり、周囲のコンクリート柱が崩れたりして近づけない状態になっている。放置すれば崩落の可能性もあるという。町は2006年7月から募金を呼びかけ、元特攻隊員らの団体や遺族会にも協力を求めた。今年4月には東京で寄付を募るコンサートを開催した。
 その結果、これまでに約1600万円が集まった。大半は一口数千円だが、200万円の寄付も2件あった。町は解体、再建を検討したが、中村さんが思いを込めた作品を残したい、と今の姿のまま修復することにした。
 町は、修復に向けた調査を実施。来年1月から約2か月間の予定で、ひび割れや穴には樹脂を注入するなどしたうえで全体をアクリルコーティングし、さらなる劣化を防ぐ。町は例年、4月7日に慰霊祭を開いており、修復作業は来年の慰霊祭に間に合わせる。
 「当時は『英霊がここからずぶぬれで帰ってくるのではないだろうか』と考えながら設計した。町の人が大切にしてくれて本当にうれしい」と中村さん。父が、大和と共に沈没した軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の乗組員だった横浜市泉区の西岡登志美さん(66)も「これで安心して父たちの慰霊を続けられる」と感謝した。 伊仙町の大久保明町長(55)は「次世代に二度と戦争はしてはならないと伝えるためのシンボルとして守っていきたい。戦後65年となる来年の慰霊祭は盛大に行いたい」と話している。

☆☆☆小学生☆☆☆
小学生共通
【常識】『世界 ヨーロッパ』
中3のYくんが「パリの首都はロンドン」と言ってました。
どうも一般常識がない子ども達が増えてきます。
塾としては地理、歴史などの一般常識を小学生の内に少しでも定着させたいと思っています。
ちなみに前述のYくんの社会の成績は「3」、数学は「5」、理科は「4」です。
これ程の好成績の子どもでさえ常識が欠片もありません。

SNくん
【算数】『計算問題直し』
君も忘れですか…本当に家でやったのかな。。
【理科】『一問一答 火山・地層』
うーん、明日は本番です。大丈夫かなあ…
【社会】『明治維新・尊皇攘夷運動 追試』
76点でした。
頑張ったとは思いますが、漢字の間違いが多すぎです。
随分とおまけしました。
 
HOくん
【英語】『ローマ字』
随分と難しいローマ字も練習しました。暫く続けますよ。
【算数】『比』
文章題をきちんと読む習慣がなかなか定着しません。
ちょっと心配です。

KOさん
【算数】『計算問題直し』
こらー、忘れてしまいましたね。明日は絶対です!
【理科】『一問一答 火山・地層』
来年の今頃には学校で学習する筈。やり甲斐ありますよ。
【国語】『漢字テストの演習』
明日も是非満点を取って下さい。頑張って。

☆☆☆中学生☆☆☆  
中学二年生
【国語】『天声人語要約』
5W1Hを意識しましょう
かかれている事実、それに対する感想、解説などをも意識しましょう
【英語】『プリント』
抜けてるところがあったけど教科書を自分で見て埋めるということでした。
信用してますよ

高校受験数学『立体図形』
展開図+三平方の頻出問題でした
目標としては完答を目指すのではなく
確実に取れる部分点を落とさないようにしましょう

『計算テスト 平成14年度過去問題』
 中原中 14/18
 奈良中 10/18
 東橘中 14/18
基本的な計算で間違うことは許されません
せめて15点を最低ラインとして目標としましょう
 
◆◇◆毎日が記念日◆◇◆
四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日
 1702(元禄15)年、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。
 1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
 家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。
 世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。
 この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
南極の日
 1911(明治44)年のこの日、ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した。