2011年1月25日火曜日

国公立大が願書受け付け開始

 全国の国公立大で24日、2次試験の願書受け付けが始まった。出願期間は2月2日まで。国立82校367学部、公立77校169学部が計10万583人を募集する。
 2次試験は前期日程が2月25日から、後期日程が3月12日から。一部の公立大の中期日程は同8日以降に行われる。
 国立39校124学部、公立18校40学部が、大学入試センター試験の成績によって志願者を門前払いする2段階選抜を予告している。 

☆☆☆小学生☆☆☆
中学受験
入試まで後1週間です。
【理科】『エネルギー』
位置エネルギー、運動エネルギーの問題でした、この範囲は高校で初めて公式を学ぶので必ず図や表が付いています
その図やグラフ、本文が読み取れれば単純な比例計算のみの問題ばかりでした
が、その本文、表の読み取りが全くできませんでしたね…
 
☆☆☆中学生☆☆☆
中1補習

【理科】『気体テスト』
【英語】『学校課題』
気体のテスト、期待してますよ~

中3補習
【理科】『県トレ電気』『県トレ運動』
まずは公立受験面接お疲れ様でした
電気、運動分野の公式や考え方を復習しました

何回も繰り返し繰り返し説明した事柄の定着率が悪すぎます
同じ箇所で躓いてばかりいるのもつまらないので何とか今回で覚えて下さい


☆☆☆高校生☆☆☆
総合科学高1年(電子)

【数学】『正弦定理』
定理自体は簡単なんだけど意外と計算が難しい箇所です
分数のなかに分数がある形を上手く処理してね 


総合科学高3年(情報)

【数学】『大学課題』
これで残りは積分のプリントのみ!
終わりが見えました

【英語】『定期テスト対策』
いままで通りでOK

総合科学高3年(電気)

【理科】『定期テスト』
大学からの課題は出ていないということなので最後のテストは頑張ってね
 
東海大高1年
【数学】『復習』
何回かやったところなのでもっと素早く! 
【情報】『テスト対策』
なぜ情報のテストで実用新案や特許、意匠の保護期間まで覚えなければいけないのか理解に苦しみますが一応覚えておきましょう
にしても著作権周りの暗記物が細かすぎる!!

私大2次試験対策
【英語】『杏林大学過去問』
48/100
中三の文法で解ける問題に間違いがたびたびあったのが遺憾
後は単語の精度を上げないと整序問題、長文でくるしいかな?
がんばれ~

【生物】『杏林大学過去問』
73/100
各問題でちょこちょこ落としてこの点数でした
光合成の理解と単純な暗記漏れが無ければ9割いけましたね

 
◆◇◆毎日が記念日◆◇◆
日本最低気温の日
 1902(明治35)年のこの日、北海道旭川市で、日本の最低気温の公式記録・-41.0℃を記録した。
 1978(昭和53)年2月17日に幌加内町母子里の北大演習林でこれより0.2℃低い-41.2℃を記録したが、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、旭川の記録が公式の日本最低気温となっている。


左遷の日
 901(延喜元)年のこの日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された。
 彼の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとした。
 長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春を忘るなと詠み、この日、都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の飛梅」の伝説がある。
 菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなった。


お詫びの日
 1077年のこの日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に「お詫び」をする「カノッサの屈辱」の事件があった。
 ハインリヒ4世はイタリアの支配を目指し、ミラノ大司教等を次々と任命した。グレゴリウス7世がこれらの教皇を無視した皇帝の行為を激しく非難したのに対しハイリンヒは激怒し、直ちに諸侯を集めて教皇の廃位を決定した。これに対して教皇も、1076年2月に皇帝の廃位と破門を宣言した。
 破門の知らせを受けた諸侯たちは、次々とハイリンヒに叛旗を翻した。そこでハイリンヒは、教皇から破門を解いてもらう為に、グレゴリウス7世が滞在している北イタリア・カノッサ城を訪れた。しかし、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは1月25日から3日間、雪の中、裸足に粗末な修道衣だけの姿で城の前に立ち続け、ようやく教皇の赦免を受けることができた。
 しかし、赦免を受けた皇帝は巻き返しを謀り、教皇との対立は再び激化して行った。この争いは以降約半世紀も続いた。